食道癌と自然体で向き合う [Living Naturally with Esophageal Cancer]

人生は不公平極まりないが、すべての命は例外なく尽きる。そんな当たり前のことでさえ、我がこととは無縁と生きてきた。生を受けてからすでに半世紀を超え、着実に死に向かっていることに意識を向けることもないまま、告げられた宣告。ここに綴った文章がどこかの誰かに役立てば幸いです。

Blogspot掲載3

治療法の選択(2018/05/25)

 

病院を変えるとき、CT、PET、MRIなど高額な検査をして、それらのデータと紹介状を同封した書類を持たされるのだが、これらの検査は時間と金の無駄である。なぜなら、行った先の病院で必ずもう一度やらされるからだ。

 

紹介されたのは、沿線では名の通った医大病院で、初見の医者は、こんなものでは役に立たないと全てやり直しになり、最初に内視鏡検査を受けた。

 

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二度目の内視鏡だったが、ひどい苦痛を味わった。以前患った前立腺炎のときと同等か、それ以上だった。あのときは肛門から突っ込まれたが、今度は口から30分以上、金属のヘラで食道と胃の内壁を擦りまわされ、終わったときには精根尽き果て、ベッドの上で一時間ほど休んでからやっと他の検査を回ることができた。

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以来、内視鏡は数十回受けているが、技師の力量差は大きい。二度目にまたヘタクソに当たってからは、ずっと眠ることにしている。結果、食道癌と宣告され、入院が決まった。


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2014年2月14 日金曜日。

St. Valentine's Dayに入院、というのは憶えやすいと思っていたら、日本列島に寒波襲来。大阪も近年にない積雪に見舞われ、10年以上前にLAで購入したキャスター付きの大型バックを雪道のなか引き摺って駅まで行くのは骨が折れた。


病室に色々とセットし終えると、森本レオ似の放射線医が現れ、最初の抗がん剤投与は日曜夕方だと言った。午後2時、抗がん剤投与用カテーテル挿入の簡単な手術。心臓に薬物を直接投与するためのものということで不安だったが、幸田シャーミン似のフリーランスの専門医はシャキシャキ説明し、予定リストからこぼれていた私をぶっこんでくれた。

 

10階の病室に戻って、用意されたペラペラの手術着に着替え、一階の手術室に移動。そんな格好でしばらくひとりで待たされ、なにより寒かった。助手を従えて現れたシャーミンはテキパキと通常よりも早く、30分ほどで仕事を終え、挿入口を鎖骨でなく上腕を選択した理由など質問にも的確に答えてくれた。

 

医者との出会いは運である。

 

この病院で最初に会った医者は、「食道癌の二期ですね、若いですから全摘してすっきりしましょう、開胸手術です」と言った。しかし、転移がみられたら話は変わる。

 

PET検査をすることになったために、検査結果が出るまでの時間的余裕をもつことができた。転移がなかったことでその医者は手術ができると思っていたのだろう。

 

「手術はやめます」

 

そう言うと、彼の落胆ぶりはあからさまで、客に逃げられた紳士服の店員のようだった。そもそも医者とはそういうものだと捉えている。手術をして儲けたいのは当然で、それを責めることはできない。

 

手術を受け入れなかった理由はいくつかある。まず、いま健康体であること。8時間もおよぶ全摘手術という負荷をかけたくないし、術後の状態も不安がある。さらに、手術を受けたら、百人中数人は亡くなり、ひと月後にはさらに数人と、現実に命を失う危険を伴う。縫合手術がうまくいかないとか、合併症とか、うまくいく保証など全くない。

 

数回会っただけの赤の他人に命を委ねる気には到底なれなかった。

 

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このときは、腹腔鏡手術という選択肢の可能性について考えもしなかったが、早急に医者に言われるがまま開胸手術を選ばなくてよかったと、いまも想う。