食道癌と自然体で向き合う [Living Naturally with Esophageal Cancer]

人生は不公平極まりないが、すべての命は例外なく尽きる。そんな当たり前のことでさえ、我がこととは無縁と生きてきた。生を受けてからすでに半世紀を超え、着実に死に向かっていることに意識を向けることもないまま、告げられた宣告。ここに綴った文章がどこかの誰かに役立てば幸いです。

ちょっと遅れた三ヶ月検診

Hatenaのカコさんのような熱心で興味深いブログを読ませていただくだけで、自分では検診後しか書き込まなくなってしまっている。

久しぶりに自分の頁を開くと、それでも今日7人の訪問者。罹患して情報を求めている人たちがいることを久しぶりに実感する、3年前の私のように。

いま自宅から徒歩5分の駅前のカフェでフリーWiFiにコネクトしてこれを書いている。もうすぐ5年物になってしまう重いMacBookProを持ち込み、店内で流れるクリスマス・ミュージックを無視して、チェット・ベイカーを聴きながら。

2016年ももう終る。今年も色々あった。

8月の検診後、9月に結婚後21年棲んだ場所から駅から反対へ越した。高校卒業後、LAへ留学し、一旦大阪に戻り、3年後にまた渡米し、LA、SF、NY、そして東京と転々とした日々は遠い過去で、20年以上も同じ場所に居続けたのは人生で初めてのことだ。

その翌月にLAの恩人が百歳の誕生日直後亡くなったと知らせを受けた。最後に彼女に会ったのは10年以上も前に彼女が大阪に来たときだった。

「もう私は日本に行けなくなったからあなたが会いに来なさい」

最後に話した電話で彼女がそう言った。

以後、何度か訪ねるチャンスがあったのだが、3年前に罹患してからは、ただバースデーカードに「もうすぐ会いに行きますから待っていて下さい」と書き続けた。見ず知らずの私を我が子のように可愛がってくれた人にひと言御礼が言いたかった。

「お葬式、行ってきたら」

ワイフがそう言ってくれたが、亡くなったものは仕方がない、御礼が言えないのだから。そう想っていたが、彼女の子供たちから来たメールに心が動いた。彼らも私を家族のように接してくれた恩人である。

ちょうどその頃、術後一年半が過ぎ、ほぼ普通に食事ができるようになっていたのは偶然ではなかったのかもしれない。体力的にアメリカに行くのは不可能ではなくなっていた。

16年ぶりのアメリカに35日間滞在した。多くの友人たちに再会し、大好きなメキシコ料理を満喫し(時々ダンピングに苦しみつつ)、初めてラスヴェガスにも連れて行ってもらった。(プロフィール写真はそのとき砂漠の真ん中の休憩所で撮ったもの)

そういうわけで三ヶ月検診がズレて予約をし直し、12月1日に内視鏡、CT、そして血液の検査をして一昨日担当医を訪ねた。

内視鏡検査で喉の上部に炎症まではいかない、わずかなダメージがみられるとのこと。すぐに察しがついた。LAで食べまくったメキシコ料理である。なかでもダウンタウンのタコスのチリソースは強烈だった。あまりの美味さにたっぷりつけてほおばると、口のなか全体、舌、喉に強烈なパンチがきて、ひどいダンピングの二倍は汗が出た。

後は問題はないとのこと。

次回の予約をとり、鴨川沿いをふた駅歩き、京都大丸の大北海道展でチョー美味で普通より少量で私にはちょうどいいえびみそラーメンを食し、うまそうなものを買い込んだ。

一万歩以上歩き、無事帰宅。最初の検診のときの状態が嘘のよう。

後は、とにかく日常的に自分へのケアを怠らないこと。

MacBookProを駅前まで持ってきているのもその一貫。LAでは恩人の孫の家に滞在していた。大学教授である彼はMacBookと書類の束を持ってカフェをはしごしていた。彼の場合は集中するためだが、自分にも応用できると想ったからだ。

低体温は癌が好むのでほぼ毎晩湯船につかっている。

後は体力をつけるのにもう少し太りたいのだが、『一日少量を六食』はなかなか難しい。
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