食道癌と自然体で向き合う [Living Naturally with Esophageal Cancer]

人生は不公平極まりないが、すべての命は例外なく尽きる。そんな当たり前のことでさえ、我がこととは無縁と生きてきた。生を受けてからすでに半世紀を超え、着実に死に向かっていることに意識を向けることもないまま、告げられた宣告。ここに綴った文章がどこかの誰かに役立てば幸いです。

Blogspot掲載記事1

術後三年を過ぎて (2018/05/19)

 

日本初のパーソナル向けワープロOasisが1980年代初頭に発売されて飛びついた。3台使って、Macに乗り換えたのが10年後の1990年代。以来、ずっとMacユーザー。現在使っているMacBookProも6年が過ぎて支障が出始めている。裏蓋を開けて部品交換したり、アプリに機能拡張を付加するなどはできるレベルだが、今回のブログ引越には手を焼いている。

 

陽子線治療で一度は消えた癌が再発し、摘出手術を受けたのが、ちょうど3年前の今日だった。

 

当時の心境を振り返る。

 

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『たかが狭窄感である』

そう書いたふた月後に内視鏡検査で再発がわかった。すでにレベル2のサイズ。胸部の狭窄感は、陽子線治療を終えた半年後、昨年暮れから始まり、何度も症状を訴えるが、主治医はCT画像を見せながら問題はないと主張するばかり。晩期障害かと思いはじめていたのでショックだった。

 

悔やむことは多々ある。

「目視的になくなっているが細胞レベルではわからない」

陽子線治療が終わったとき、そう言われた。再発防止のための努力を充分に尽くしていたかと問われれば、慢心していたというしかない。毎月一回、医者が言うままに、CTスキャン、PET、血液検査を繰り返していればいいと捉えていた。

 

検査は、何の役にも立たなかった。

 

毎月内視鏡検査をしていれば、少し早く発見できたかもしれないが、そんなオプションも思いつかなかった。食道ごと癌を削除するか、抗ガン剤を投与しつつ免疫療法などを模索するか。独身だったら後者を選択したかもしれないが、ワイフの精神的負担が重過ぎる。

 

小病院に転勤となった主治医は「ここで手術は勧めません」と小声で言ったが、ワイフの進言で、元の病院ではなく、西日本最大級の大学病院を選択。紹介状を依頼したときの彼の驚いた表情が忘れられない。(後日、癌を見つけられなかったことで謝罪していたとワイフから聞いた。)

 

この世の最後になるかもしれない病院に入院したのが亡き母の誕生日。成功率70%という確率に身を委ねることになった。58の誕生日からちょうどふた月過ぎた日の朝8時から10時間の手術が始まった。

 

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実際は12時間かかった。

暗闇のなかで覚醒めてワイフとナースの話し声が聴こえ、ワイフが近寄ってくる気配がして手を握られた。

「終わったよ」

その声から生還したことがわかった、とりあえず。ひと晩を集中治療室で過ごしたが、その後のことは断面的でよく憶えていない。